先日、映画「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」の感想を書いたところ、たくさんの方に読んでいただき、私自身たいへん驚いています。
申し訳ありません。私は欅坂46のことをまったく知りません。知らないと言っても、もちろん秋元康プロデュースの女性アイドルグループであることぐらいは知っています。でも、それ以上は何も知りません。そのパフォーマンス[…]
欅坂のことをまったく知らない私が書いたので、多分に的外れな内容だったのではないかと心配していたのですが、多くの読者の方に好意的に受け取っていただけたことに、心より感謝申し上げます。
その記事にも書きましたが、これからも彼女たちを見続けようと思い、手始めにYou Tubeなどにあがっているミュージックビデオを見てみました。
以下、その率直な感想を、自分への備忘録として書きとめておきたいと思います。
ひとりひとりの思いが宿る手の表情
You Tubeで欅坂46を検索して最初に出てきたのが『誰がその鐘を鳴らすのか?』でした。
最初からずっと鳥肌が立ちっぱなしでした。
その後、流れてくるままにいろいろなMVの彼女たちのパフォーマンスを見続けたのですが、まず最初に目を引いたのが、彼女たちの手の動きでした。
時には相手を鋭く突き刺し、時には優しく包み込み、頭を抱え、自分の首を絞め、誰かを倒し、そして誰かを力強く引き寄せる。
弛緩と緊張が繰り返される、その手の動きのひとつひとつに、ものすごい表情がありました。
みんなできれいに動きを合わせましょう、というようなものではありません。
同じ動きの中にも、ひとりひとりの表情が、思いが、その手の、その指先に宿って見えるというのは驚きでした。
私自身、役者であり演出もするので、手先、足先の指の1本1本にいたるまで、血を通わせて表現することの重要性と難しさは知っているつもりです。
映画を観て彼女たちに感じた「圧倒的な繊細さ」というものは、こういうところにも表れているんだなとあらためて思いました。
パフォーマンスを自分のものにするということ
でも、このパフォーマンスの素晴らしさは、結局は振り付けの人の力ではないのか?結局は振付師次第なのではないかと思うかもしれませんが、それは明確に否定できます。
同じ振りでも、その中にひとりひとりの個性が見える、個性が光るというところが素晴らしいのです。
一番大事なことは、振り付けを正しく覚えて間違わずに踊ることではなく、「そのパフォーマンスをいかに自分のものにするか」ということです。
これは非常に難しいことで、役者でもまったく同じことが言えます。
役を自分のものにすることが一番難しく、究極はそこを目指して俳優は日々試行錯誤しています。
欅坂のメンバーはそのことをよく分かっているように見えますし、中でも平手友梨奈はその部分で自分を追い込みすぎたのではないかとも思いました。
同調性の中の個としてのきらめき
この個性を大切にする、個性の力を最大限に引き出すパフォーマンスは、欅坂の成長の中に見て取ることができます。
ファーストシングル「サイレントマジョリティー」では、個性というより同調性の動きが中心でした。
それが、新しく曲をリリースするごとに、徐々に、同調性の中に個としてのきらめきが見えるようになってくるのです。
それは、メンバーひとりひとりの努力と成長によるところが大きいでしょうし、彼女たちの能力を最大限に引き出し続ける、振り付けのTAKAHIROさんの力でもあると言えるでしょう。
「振り付けしてもらう」から「振り付けさせる」への成長
私が舞台の演出をする時に感じること、それは、魅力的な役者というのは、演出家が「演出させられてしまう」役者であるということです。
つまり、その役者が放つものからインスピレーションを得て、演出する側にどんどんアイデアが湧いてくるということです。
きっと振り付けのTAKAHIROさんも、平手を見てるとああしたくなる、菅井友香を見てるとこうしたくなる、小林由依にはこの言葉を言わせたい、小池美波のこの表情を見せたい…といったものを、メンバー全員に感じているのではないでしょうか。
そしてそれは、プロデューサーの秋元康さんに関しても言えることだと思います。
プロデューサーやディレクターにとって、自分の言ったとおりに動いてくれるだけのパフォーマンスでは、本当の意味での喜びはないはずです。
作り手にとっての本当の喜びは、こちらの想像を遥かに超えたパフォーマンスを見せつけられたときです。
TAKAHIROさんや秋元さんも、欅坂のメンバーが自分の想像を超えたパフォーマンスを見せてくれたとき、本当の喜びがあるはずです。
芝居では「当て書き」というものがありますが、欅坂の作品には、他のグループにはない劇的なものを強く感じます。
TAKAHIROさんや秋元さんたち作り手自身が、欅坂に熱狂し、メンバーに当て書きで作品を作っているとしても、何ら不思議ではありません。
むしろそのほうが自然だとも言えるくらいです。
そして、作り手と演者両方の、高い意識での相互作用で作り出されるパフォーマンスだからこそ、我々観客の想像力をも遥かに超えて、感動へとつながっていくのだろうと思います。
またとても興味深いのは、同調性の動きから、各個人を認める個の動きへという変化は、実はデビュー曲「サイレントマジョリティー」の歌詞に、その思いが綴られていることです。
「この世界は群れていても始まらない」
まさしく彼女たちは、自らこの道を選んで突き進んできました。
そう、自ら選んできたのです。私にはそう感じます。
そこに、おそらくこの歌詞を書いた秋元さんの想像をも遥かに超えた彼女たちの思いがあったのではないかと思うのです。
選抜拒否という選択のなかに見えるもの
映画『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』の中でも触れられていましたが、選抜制に対する彼女たちの抵抗が、そのことを如実に表しているように感じます。
ビジネスですから、運営側の思惑もあるでしょう。
大人の事情もあるでしょう。
メンバーひとりひとりの考え方も、みな同じというわけにはいかないでしょう。
それでも、選抜制に対する拒否反応は、特に初期メンバーにとっては強いものがありました。
「世界は群れていても始まらない」
秋元さんがどういう意図でこの歌詞を書いたのかは分かりませんが、個人的な私見としては、平手を始め、選抜制に拒否反応を示したメンバーは
「選抜=群れ」
と感じたのではないでしょうか。
一見すると逆のように感じるかもしれませんが、選抜されるとは群れの中から抜きん出ることであり、群れが前提になります。
しかもその選抜は、大人たちの都合で決められてしまう選抜です。
でも私達は群れじゃない。
群れてるんじゃない。
ひとりひとりでしっかりと輝きを放ち、そのひとりひとりの光が強固に集まってひとつになって、欅坂46を作っているのだ、作ってきたのだ。
そんな自負というか、願いがあったのではないかと思うのです。
あの子がいたから私は頑張れた。
あの子がいたから救われた。
誰一人として必要なかった子(個)なんていなかった。
あの子(個)がいたからこの作品(全体)ができたのだ。
それは決して群れじゃない!
私達は群れてなんかいない!
他人に関心を示さず、うわべだけの仲良しごっこで、本音は自分だけが選抜されることを願っているような群れでは、私達は決してないのだという強烈な拒否反応だったのではないかと思うのです。
そう思ってあらためて『不協和音』という作品を見てみると、「僕は嫌だ」と叫んでいる言葉が強烈に胸に刺さってくるのでした。
まとめ
まだまだ書き足らないような気もするのですが…うまくまとまらないので今回はこの辺で…。
以上、映画『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』を観て初めて欅坂46を知り、今回初めて彼女たちのミュージックビデオを拝見して、最初に受けた自分なりの思いを、思いつくままに書いてみました。
まだメンバー全員の顔と名前も一致せず、彼女たちの歴史についても、映画と、ネットに散見されるゴシップ記事をいくつか読んだ程度の私です。
ただ、ゴシップ記事についてはその真偽の程は私には分かりません。
ただ「秋元康が平手友梨奈だけを…」とか、「平手と長濱ねるの…」みたいな記事については、私自身、少なからず違和感を感じるのも事実です。
なので、そのような憶測の記事よりも、私が実際に目にした彼女たちのパフォーマンス映像や、映画で語られている彼女たちの言葉から、私自身が自分で考えて感じたことを残しておきたかったのです。
それが、彼女たちへの私なりの誠意かなと思うからです。
ただ、まったくの認識不足でファンの方たちからは??と思われてしまうことを書いているところも多々あると思います。
どうぞお許しください。
とにかく、初心忘るべからず、という思いで綴ってみました。
今抱いている思いが、今後どう変わっていくのか、また変わらないのか、そういったところも意識しながら、改名した後の新生欅坂46に期待し、彼女たちのこれからを見続けたいと思います。